3月8日(日) 世界はうつくしいと【少年の主張愛知県大会より】
- 公開日
- 2026/03/08
- 更新日
- 2026/03/08
校長室
中学校に「夢と希望と」をテーマにした「令和7年度少年の主張愛知県大会」の発表文集が届きました。みなさんと同じ世代の子たちが今伝えたいことをぜひ読んでほしい!感じたことを友だちや学校の先生、家族に話してみてほしい!そんな願いからHP記事で少しずつ紹介していきます。今回紹介するのは、蟹江町立蟹江中学校3年の生徒の作品です。
題:世界はうつくしいと
「そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。」
中学三年生、国語の教科書を開いてすぐのページに詩が載っている。長田弘の「世界はうつくしいと」だ。その詩の中に冒頭の一文がある。「いつからか、気がつくと誰も『うつくしい』という言葉をためらわずに口にしなくなった。そして私達の会話は貧しくなってしまった。」このような始まりだ。
私の弟はADHD、いわゆる発達障害というものを持っていて、トゥレット症の一種である汚言症という症状がある。本人の意思とは別に暴言や卑猥な言葉を連発してしまうため、弟はよく誤解されやすい。私自身、弟と口論になると、「死ね」「消えろ」といった暴言の他に、口に出すのもはばかられるような性的な言葉をぶつけられる事がある。朝起きてリビングへ行くと、いきなり容姿を馬鹿にされたり、罵倒されたりすることもある。言われると当然、イヤな気持ちになる。仕方がないと頭の中では分かっていても腹が立つ。しかし、それ以上に私を不快にさせるのは、「お前もADHDなんじゃないの」「発達障害みたいな事言うなよ」というような差別的発言。「死ね」「クズ」「消えろ」などの暴言。この世で誰もが簡単に、軽々しく暴言を吐けるようになってしまった環境だ。
私の友人も、学校でイヤな事があれば「死ねばいいのに」と言ったり、中指を立てたりする。レクリエーションでドッヂボールをすると、「死ね」と叫びながらボールを投げつける生徒がいる。もはや当たり前になったこの光景をわざわざ注意する人なんてほとんど先生達だけで、注意されてもわずらわしそうに過ぎ去っていく。
弟の汚言症は、ADHDと同様に治せないものだ。だが、日常的に暴言を吐く人達のほとんどは、「健常者」という枠の中にいる人だろう。私達は風邪を引いても、薬を飲んだり、休息をとったりすれば治る。重い感染症などは、治療をしても後遺症が残る場合があるが、病気の元となるウイルスや菌はいなくなるはずだ。でも、弟は。弟のように「特性」を持つ人々は…。病気とは違って、薬を飲んで症状を軽くすることができても、できなくても、持って生まれてきたその「個性」をないものにすることは不可能だ。
私の母は、よく私と弟が口論になると二人きりになった時に必ず、こんなことを言う。「私達にとって社会生活を営む上で当たり前とされる行動が、あの子達にとっては少し難しい。でも、ほんの少し誰かの優しさが、手助けがあれば、一緒に過ごすことができる。だから障害者手帳やヘルプマークなどで周囲の人達に知らせているんだよ。」と。
ならば、私達はどうなんだ。「健常者」の枠にいる私達は。突発的、衝動的に発言してしまう私の弟とは違って、私達は文章を頭の中で考えて発言することができるだろう。相手の気持ちを考えて会話することができるはずだ。なのに私の身の回りでは平気で人を馬鹿にしている人がいる。「特性」を持つ人々を「障害者」と言って格下に見ている「健常者」がいる。本当は言ってはならないような重い言葉を軽々しく使う人がいる。何気なく放った一言で、傷つく人がいるというのに。そんな人の事を考えずに、日常的に言葉の凶器を使っている。
「世界はうつくしいと」には「あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ」という文がある。しかし、私は今のこんな世の中は「あざやか」ではないと思う。だから、「うつくしいもの」の話をするべきだと考える。何かあるたびに言葉の凶器を使うのではなく、身近にある「うつくしい」を言葉にしてみることで、心が豊かになり、気持ちが今よりずっと楽になると思ったからだ。日常の中に何気なくある「うつくしいもの。」それに気がつけば、世界はもっと輝いて見えるだろう。以上が私が「うつくしいもの」の話をするべきだと考える理由である。
私はこの詩に十五歳の今出会えて良かった。きっとこの先、様々な壁にぶつかるはずだ。でも、この言葉を忘れずにその壁に挑みたい。
うつくしいものの話をしよう。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか、
すべて塵にかえるのだから、
世界はうつくしいと。
(HP掲載について、編集・発行先より許可をいただいています)