2月21日(土) 多様性とわたし【少年の主張愛知県大会より】
- 公開日
- 2026/02/21
- 更新日
- 2026/02/01
校長室
中学校に「夢と希望と」をテーマにした「令和7年度少年の主張愛知県大会」の発表文集が届きました。みなさんと同じ世代の子たちが今伝えたいことをぜひ読んでほしい!感じたことを友だちや学校の先生、家族に話してみてほしい!そんな願いからHP記事で少しずつ紹介していきます。今回紹介するのは、新城市立新城中学校3年の生徒の作品です。
題:多様性とわたし
多様性という言葉に、違和感を覚えたことはあるだろか。
近頃、「多様性」という言葉をよく耳にするようになった。性別、宗教、性的指向、文化などの価値観の違いを認め合い、多くの人が自分らしく生きやすい世界にしていこうという目標からできたものだ。とても素敵なものだと思う。
だが、最近その多様性がかえって人々を分断させているのではないかと感じることがある。価値観を認め合うのではなく、自身の価値観を押し付けることになっていないかと思うのだ。
以前、私の友人同士で実際にあったことである。ある日、学校からの帰り道で私を含め、友達四人で楽しく話していた。話題が最近私の好きな動画投稿サイトのことになった。一人が最近好きで夢中になっている動画について、「すごく癒されるし、寝る前に聴くと落ち着くんだよね」と言った。しかし、別の一人は「私は気持ち悪いって思う。変な人が見てるイメージ」と言う。沈黙が走った。そして、その動画を好きだといった友達は、ただ苦笑いをしているだけだった。
私は困った。二人とも違う価値観なのだ。誰でも好きなものを否定されると悲しい。だから否定した友達に「好きな人も多いから、否定するようなことは言わないほうがいい」と訴えた。
しかし否定した友達は譲らない。「私は無理なの。私の感想を言っているだけ。」と。気まずい空気が流れた。私も別の友達も、何となく目をそらした。好きだと言った子が怒っているのは分かった。楽しい下校だったはずなのにバツの悪さを感じた。
価値観の否定は、無自覚な偏見にもつながる。自分の価値観こそが正しいと言い切る。それは、無意識に多様性を否定しているのではないか。場合によっては、それは差別にもつながる。「意見を言う自由」と「相手を尊重する心」の間に葛藤があり、個性と常識のすれ違いがある。「多様性」の名のもとに繰り広げられる、お互いの価値観のすれ違い。それを相手に求めると、日常の関係性が崩れる。
ニュースの報道などから特にその傾向が強いと感じた。特定の価値観に反する発言をすれば、炎上し、社会的制裁を受ける。それがときに、顔の見えない誰かを追い詰める。
相手の思う多様性には見向きもせず、自分の思いを押し通す。それはもはや、「多様性」ではなく「同調圧力」ではないだろうか。
多様性を認め合うには、違いを理解しようと努めつつ、自分と異なる価値観も許容するという双方向の寛容さが不可欠であると思う。しかし現代社会では、自分の正義感に基づいて他者を糾弾する傾向が強まっている。自分の多様性を受け入れろ、だがあなたの考えは受け入れないといったことは、対話を不可能にし、社会をより分断させている。SNS問題もその一つだと思う。
私は、多様性とは「押し付けるもの」ではなく、「育てるもの」だと考えている。人と違う意見に出会ったとき、「どうしてそう考えるのか」と問いかけてみた。すぐには否定せず、一度受け入れた。そうすると、なるほど、そういう考えもあるんだなと一歩ひいて考えることができた。それが多様性を認め合う社会をつくっていくことにとって大切だと感じた。
もし誰かの意見に疑問を抱いたとき、すぐに批判する前に、なぜその人がそう考えるのか、と少しだけ考えてみてほしい。もちろん、私の考えに共感してもらわなくても構わない。この話は、同意してもらうためのものではなく、ただ「知ってもらう」ために伝える。これはあくまで私の主張であり、私の考えだ。多様性を認めるのと同じで、誰かに私の考えを押し付ける気持ちはない。それが多様性のあるべき姿だと考えているのだから。